こんにちは、zukacotoです。
現在、宝塚大劇場で公演中の星組「ロミオとジュリエット」Bパターンの配信を拝見したので今日はその感想をお話したいと思います。
私は東京組ですので、今回のロミジュリを拝見するのは初めてになります。
久しぶりに足を踏み入れたヴェローナの街は、やっぱり最高だった。
今も興奮が収まりません。まだ顔が熱いですもん。
そして、このジェラール・プレスギュルビック版のロミジュリを初めて観たときの、頭に雷を打たれたかのような衝撃なんかをふと思い出したりもしました。
そんなわけで、感想です。
ロミオとジュリエット、新解釈
公演が始まる前から小池先生らが「新たなロミジュリを」としきりに仰っていましたよね。
これだけ再演を重ねてきた作品に、新たな要素が入り込む余地があるのか、なんて正直思っていたのですが、今回観てよくよくその意味がわかりました。
礼真琴の持ち味を上手く活かした解釈になっていたんですよね。これは唸りました。
礼のロミオをベースに、周りの登場人物も少しずつ解釈が変わっていたりして。全く新しいロミオとジュリエットになっていたと思います。
ロミオの破滅の原因
10年来のファンである私から見ると、礼真琴という方は意外と悲劇性のある物語の方が似合うし、明るく元気な役よりは少し事情を抱えていそうな影のある役だったり、色々と思い悩む役だったりする方が合うんですよね。
小池先生はその辺りよくわかっていらっしゃる。
今回の礼真琴のロミオはファンの私も驚くほどピュアで真っ直ぐで真っ白な存在でした。
しかしながら、そのピュアさもある一定を超えてくると、どこか儚げで何かの拍子にふっと消えてしまいそうな不安定な存在に見えてくるから不思議。
かと言って、この不安定さが破滅への直接の原因になったかというと、それも違うような気がするんですよね。
私なりの礼ロミオの解釈はこう。
ロミオという人物は常に心のどこかで”死”を近くに感じながら生きてきた。だからこそ何をするにしても現実味がなく、ふわふわと夢の中をさまよっているような存在だった。
あのピュアすぎるほどのピュアさはその裏返しである。
それが、ジュリエットと出会って恋をしたことで生きることに執着し始めた。夢の中を彷徨っていたロミオが地に足を付け始めた。
そうやって現実を生きるようになったことが、かえって彼を死へと向かわせるきっかけになったのではないかと。
今まで通りふわふわと夢見がちなまま生きていれば、あんなに若くして死ななかったのかもしれない。
しかし、それが本当に生きているということになるんだろうか。
それが死への入口だったとしても、地に足つけて泥臭く生きた3日間はやはりロミオにとって人生で1番刺激的で光り輝いた時間だったのではないだろうか。
実際に礼が何を思って役作りしたのかはわかりませんが、何だかそんな風なことを礼真琴のロミオに感じたのでした。
そして、そんな礼のロミオに見事に”合わせてきた”愛月ひかるに心からの賞賛を送りたい。
正直、配役が発表された時は2番手がやる役ではないだろうと思っていたし、今でもそう思う部分が全くないわけではない。
しかし、それでも礼と愛月の組み合わせは最高だった。
愛月の死が面白いのは、誰かを躍起になって死に導こうとしたり、誰かが死んだことで喜びを感じたりしないこと。
ただ、いつもそこにいるのだ。
誰かが死ぬと、形式的に魂を飲み込むかのような仕草をする。ただそれだけ。
それでいてあの存在感なのだから、やはり並の方ではないと思う。持ち前の長身とビジュアルのよさもこの役作りを可能にした1つの要素ではないでしょうか。
正直、ロミジュリにおける死については初演の時点で、真風涼帆によってある程度完成されてしまった感があったので、再演を重ねるごとに真風の影がチラついてつい比較してしまうところがありました。
そんな中で、愛月の死は長らく停滞していた死という役に新たな息を吹き込んでくれたように思います。
今までの歴代のロミジュリでは、死こそがヴェローナを支配しており、ロミオを破滅の道へと誘っているようなところがありました。
初めてこのジェラール版のロミジュリを観た時に、何が1番面白いと思ったかってそういった解釈にあったことを思い出しました。
そこを、敢えて愛月は何もせず表情を変えずにそこにいるのです。このことがかえって礼のロミオにはピタリとハマっていたように感じました。
礼のロミオが死と常に隣り合わせにあるような儚げな存在に見えたのは、愛月演じる死があくまでも概念的な存在に徹していたことが大きいように思う。
死は誰のそばにもある普遍的な存在であり、ロミオもその一人に過ぎない。ただ、ロミオの場合はそのことを感じる力が人よりもちょっとだけ強かったのかなって。
それにしても、ただでさえ概念的な存在を、あくまでも概念的に演じて見せるということが、どれだけ難しいことか。
今まで通り狂気に振り切ってしまった方が愛月にとってはずっと簡単だっただろうと思います。なんせあのラスプーチンを演じた方ですしね。
♪僕が怖いではそのことを特に強く感じて、研15の2番手が死をやる意味というのを、何となく自分の中で落とし込めたような気がします。
ジュリエットの反抗
新たなロミオ像に合わせて、ジュリエットにも新たな解釈が加えられていました。
今回の場合、思春期ならではの危うさを発揮していたのはロミオではなくむしろジュリエットの方ではないかと私は思う。
初日が明けて以来、舞空瞳のジュリエットを「強い」とか「反抗期」といった風に形容している感想を多く見かけました。
実際その言葉は正しくて、バルコニーで乳母に呼ばれて「今行くってば!!」と半ばキレ気味に返事をしていた辺りまさに反抗期といった感じ。
しかし、それよりも私が注目すべきだなと思ったのは、2幕で父親であるキャピュレット卿と口論になるシーン。
舞空のジュリエットがとにかく強い口調で反抗をするのが効果的でした。
頑として父親の言うことを聞き入れないその姿と、乳母に懺悔をしに行くと嘘をついてこっそり神父さまに相談しに行くあたりに、思春期ならではの”視野の狭さ”と”突っ走り感”を感じたのでした。
そして、この新たなジュリエット像を形作るに至ったのは、キャピュレット卿を演じた天寿光希と乳母を演じた有沙瞳の好演によるところも大きいと思います。
娘を思わず叩いてしまったその手を呆然と見つめるキャピュレット卿。一体、彼はどれくらいの時間その手を見つめていただろうか…。
その様子を見た乳母は、キャピュレット卿がどんな思いでパリスとの縁談を勧めているのかに気付くのです。
昔、子供が生まれたばかりの知人に、やっぱり子供はかわいいでしょ、なんてことを聞いたことがあったのだが、その時にこう言われたのを思い出した。
「ただかわいいって思うの責任が無いからだよ。親になるとかわいいだけじゃ済まされなくなる。」
天寿と有沙のキャピュレット卿と乳母を見ていると、ああこれはこういうことだったのかと何だか腑に落ちたんですよね。
ジュリエットを育てたのは乳母だし、「あたしの子に違いない」という言葉は全くその通りだと思うし、有沙の乳母はジュリエットを心から可愛がっているのがよく伝わってきた。
しかし、あくまでも乳母なのです。親ではない。
乳母には親としての責任がないから、ただジュリエットのことが可愛くて、ロミオとの結婚を応援しようなんて気持ちになるんだなと。
その点、親としての責任があるキャピュレット卿は違う。かわいいからこそ、ロミオでは駄目だと言う。
親の愛情の何たるかに気付いた乳母は、一転してパリスとの結婚を勧めることになります。
そんなこんなで、今まで不可解に思っていた”乳母の手のひら返し”の意味を今回初めて理解出来たような気がします。
そして、彼らがロミオとの結婚を反対すれば反対するほど、キャピュレット卿と乳母の愛情の深さを感じて。まだそのことに気付けないでいるジュリエットはやっぱりまだ子供なんだなー、なんて。
舞空のジュリエットが強いと言われるのは、その思春期ならではの突っ走りと頑固さ故ではないかなと私は解釈しました。
そこが今回のジュリエットの可愛さでもあり、魅力でもあるんですけどね。
ロミオが好き!と思ったらそこに向かって一直線で、ロミオに会うたびに目を輝かせている姿は最高に可愛かった。
色々と行動するのはジュリエットの方で、ロミオは言われるがままの受け身なんだ、といったことを礼がどこかのインタビューで仰っていましたが、まさにその通りだなと感じました。
おわりに
本当は他のキャストについても書く予定だったのですが…。
ここまででかなり文字数使ってしまったので一旦切ることにします。
思いの外ロミジュリの新解釈が面白くてついつい語ってしまった。笑
人によって解釈も感じ方も様々だと思いますので、こんな風に感じた人もいるんだね、くらいな感じでさらっと流して頂ければ幸いです。
次回はもっと「誰のここがよかった」みたいな具体的な感想を書ければと思います!お楽しみに~!
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